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このページまで辿り着いて頂いた皆様。ご訪問まことにありがとうございます。ここの講師丸山なをの自己紹介でございます。上記の絵は私の写真をもとに作り上げたものですが、実はWindows,Mac双方のHDの中を懸命に掘り起こしてもデジカメの中にも適当な私の近影というものがありません。あるのは息子の高校球児時代の応援風景の写真等ばかりでこのサイトの趣旨とはかけ離れた雰囲気のものです。なので上記の私は今の私より相当若く、かつ1番美人に撮れていて、その上若干の修正も加えてあります。詐欺じゃないか?とも思いましたが、婚活なわけでもないのでお許し下さい。近々、写真撮影いたしますので出来次第差し替えいたします。

東京都文京区出身、現在は横浜在住、O型水瓶座、2月3日生まれ。生年は秘密!大学卒業した息子がいるのでだいたい想像してください。身長162センチ、体重53キロ。私の適正体重は48キロなので太りすぎ、ダイエット中です。靴のサイズ23センチ。

ピアノ習い始めたのは4歳から、幼少のみぎりはピアノの練習は嫌いでした。幼い子供を毎日泣かせて練習させる。という当時の、今だったら幼児虐待じゃないかと思われるような日々を送りました。それでもやめなかったのは好きだから、、より親がやめさせてくれなかったからです。(でも別にトラウマにはなっておりません。その程度には強い人間です。)思春期以降自分の意志でやめることが出来る年齢になってもやめなかったのは、その時期、音楽、演劇、その他の舞台芸術一般に淫し始めたためと、芸事は痛い思いするまでしなきゃ気が済まない!性格が顕になってきたためです。芸事に対する自虐的傾向は今でも変わりませんが、生活能力的には家事はいい加減に投げ出さなきゃ気がすまない。ので、いい加減です。

専門家目指したのは14歳から、これも自身の強い意志というよりは中学(北区立田端中学校)の担任教師が私の芸能の才能を見出し!!?音楽科高校への進学を勧められたことがきっかけです。演劇科へ進学することも考え、迷った末、音楽科へ進学。そのためか、私は理系であるか文系であるか未だに不明。だが、おそらくは私の頭脳は理系であるかとおもうのです。その証明はずるけずに勉強した時は理科が圧倒的に出来た。異才か?!って言われたくらい。全然勉強しなくても国語は成績ほどほどに良かったのですが、これは文系脳の賜物ではなく今も昔も私が活字中毒であるためと思われます。私、工学部か理学部に進学したほうが良かった?

東邦高校音楽科から東邦音楽短期大学ピアノ専攻で、卒業。中学3年の14歳から短大1年の18歳まで結構(いえ、もの凄く)ストイックに音楽の修行に励みました。が、19歳で突然何かが切れ。このままで本当にいいのか私?モードに変換。自分を見失った私は4年制大学の3年に編入する予定を変更して卒業。何故か卒業後1年洋裁を習う。これが運命の分かれ道となった。なぜなら洋裁は半年くらいで投げ出したくなっていた。(情報処理の勉強に転向してたらプログラマーになってたか知れない。)

1年で洋裁修行に懲りた私は働く気になって、大手の楽器メーカーの特約店の講師となってフリーランスで働く女の人生をスタートさせる。稼働先は所沢、生徒を100人も持たされて、この頃気付いたことは音大というのは音楽の専門的なこと、及び名曲、大曲を弾くための演奏法は教えてくれても、鍵盤のドの場所も解らないサラの初心者、且つひらがなの読み書き、数字の1,2,3の数え方を学習中の子供の教え方は教えてくれてなかった。ということ。この時期は自分の勉強もしましたが、なにより子供初心者の教授法を研鑽した時期です。この楽器店講師という立場に対する不平や泣き言は100もありますが、結構楽しかったし、気楽でした。生徒は会社が集めて来てくれるし、受付、電話応対、集金も全て会社任せ。このころ所沢に西武ライオンズがやってきたのでプロ野球もよく見に行きました。

楽器店の講師4,5年やって、なんだか私旬が過ぎて(講師としての)ないか?と、当時実家の東京都北区田端に住んでいたので、所沢はやはり遠い!そして趣味だったダンス、バレエに没頭し始め、ピアノの先生はヤメてバイトしながらダンススタジオに通いつめ始めた。なんというか私、基の性格がストイックというか、テキトーに物事楽しむことが出来ないのです。痛い思いや苦しい思いしなきゃ気が済まない。必死に頑張ってるその苦しみが自虐的快感になってくるという神経回路の持ち主です。そしてこの性格は今では立派な才能であると確信しています。

そんな暮らしも4,5年続け、これまた煮詰まりました。そもそもこの年から始めたダンスは職業として成り立たせるのは困難、そして今度こそ旬が終わる!!!普通の生活をめがけよう。見かけによらず(それとも見かけどうり?)現実的で常識的な私は専業主婦になって家事、育児に励みました。

この頃はもう横浜市中区竹之丸の在住。子供が3歳になった時に、子供は保育園に預けて家で音楽教室を始めることを決意。何となく青春時代、半端だったピアノの勉強も再開して同時に演奏活動もしよう!所沢で講師やってた時代も演奏活動はしたかったのですが、その頃は週6日場合によっては7日、レッスンは午後2時くらいから8時まで、そして通勤時間1時間以上で、午前は講習受けに行ったり、会議あったりでとても1日何時間もピアノ練習する余裕ありませんでした。ですが、自分が主催する教室なら最初は2人3人の生徒から始めるのだし、通勤の必要はない。首尾よく子供は保育園に入れたし、これで1日7時間心置きなくピアノと向き合える日々がやってくる。って、つくづく懲りない人ですね。私って。

演奏活動の拠点は教育文化センター、イギリス館、ゲーテ座あたり、伴奏もしたしソロでも弾きました。東京や千葉までくらいは伴奏しに行きました。モーツァルト、ショパン、ドビュッシーの曲よく弾いてました。バッハの平均律も頑張って随分仕上げましたが、平均律は人前で弾く勇気ありませんでした、、、。

もう楽器屋に所属してる講師じゃなかったので、教えるための講座は強制もなければ黙ってれば特に勧誘もされません。ですが、教えるための勉強に講習会その他のいはよく出かけました。自力だけで教室主催しているってことはすべて自己責任、自由なかわりに全てをひとりで抱えなければなりません。ソルフェージュレッスン、特定のメソード講習会、ピアノレッスン関連書籍を読むなどなど、、、。結果、私はメソードはアメリカ系のバスティーンメソードに決定、相対音感レッスン、論理を最初から教える、読譜を徹底する。その方法は、3歳児は○の書き方から、2つと3つの数の数え方から、5歳児はたくさんのドを書いて行くことから、、、。詳細は割愛いたしますが、私自身がバッハの平均律5声の曲モノにしても、ショパンのスケルツォ表現力豊かに感激的に弾けても、だから初心者教えるのは簡単、ではありません。それとこれとは別問題です。

そのような感じで全てが好調に思えたのですが、好事魔多し!やはり、某ヤマハの教室のように100人もの生徒を持たなくても、通勤しなくても自分の練習と生徒のレッスンに加え、家事、育児の負担はやはり重く、全部はムリ。なので家事、育児を外注出来ればいいんですけど、音楽教室がそんなに儲かる筈はなく、更に演奏活動はお金になるのではなく、お金がかかる。無理がたたり私は哀れ貧血に苦しむようになり、7,8年続けた演奏活動は断念。1996年、引退いたしました。その上、家が傾いてきた!!これ、家運の問題でも経済状況でもなく本当に物理的に家が傾いたのです。なにこれ。。。

家が傾いた以上は何とかしなければなりません。この家を捨てて(ではなく売って)新たな家を手に入れるか、家を解体して新たな家を上に創造するか?私的にはマンションで音楽教室をやりたくなかったので、1999年頃からは生徒募集やめました。なんでって、入会したとたんにこの家は捨て去って次の家じゃレッスン出来ません。っていうんじゃあまりに申し訳ありません。2005年にいったんは教室たたみましたが、2006年に住み替えではなく家の建て替えに成功。気密性良くて、傾いてなくて、南向き(これはもともとだけど)で日当たり良好、全館空調完備なので室内が乾燥しがちだけれど楽器にとっては環境良好。2009年から本気で生徒募集始めました。

家族は夫ひとり、あ、これは当たり前だわ。何故なら日本は一妻多夫の国ではない。夫をふたりも三人も持たねば肩身の狭い社会だったら私は修道女となっていたであろう。ひとりでもタマに多すぎる気がする。長男一名。元高校球児、県立高校ではポジションはサードで打順は4番、184センチ65キロ(高校球児時代は75キロ)。他に猫3匹、由緒正しきお猫様は一匹もおらず、全員拾い猫。内訳は白茶♂、黒♂、白雉♂。

性格は一途で単純(O型水瓶座ですから)。猫的行動パターン持ってて、孤独に強く、やる気が出ると超狭視野になって他が見えなくなる。言動、ファッションはエキセントリックに見えることありますが、現実的で常識的です。でも、ロマンチストこの年になって純愛物語大好きです。人生の目的はひっきー道極めること。つまり家にこもる音楽教室主催者の仕事生涯現役で続けたいです。

趣味はクラシックバレエ。子供のころにご縁があれば私はバレリーナになって今頃はバレエ教室やってたかもしれない。愛用のトゥシューズはグリシコ2007サイズは4 1/2XX私の足に合う上に持ちがいい。情報技術の勉強。これは音楽教室のほうが忙しくなって最近はやってません。とりわけコンピューター科学と私の大脳は相性がいい。でも生涯の趣味にしたいですね。人生の中で違う道に迷い込んでいたら私はプログラマーになってたであろう。まぁ、この辺りはどうせやり直せないんだからなんとでも言えますが。もう一つの趣味は野球観戦です。でも野球ってよくわかりません。最低限のルールがわかるくらい。子供が高校球児だった影響と、所沢で講師やってた頃よく西武ライオンズ球場(当時はドームじゃなかった。)行ってたからその影響です。冬は野球やってないのでつまらないです。そして私は球技のセンスはありません。バレエとコンピューター科学のセンスはあるわよ!て、強がる勢いありますが、間違っても少女の頃少年野球チームに入れてもらってたら20代は女子野球やソフトボールの選手には、なってません。でなく、なれません。野球やってるのって神業に見えますよ。

ピアノやってて1番恵まれなかったのはステージママ。母親がステージママになってくれてれば、もっと輝かしい経歴誇れた筈と何度も親にそのことは文句いいましたが、そのとうりだけれどステージママやる気はなかったそうです。ですが、仮に母がステージママやってくれて私は輝かしくもコンクールに出たり、何度ものリサイタル開いたり、オーケストラと共演は出来たかも(これもあくまで推測)知れないけれど、急に自分を見失ったからって洋裁習ったり、ダンスほうが向いてる気がしてスーパーや特許庁でバイトしながらダンス教室に通いつめたり、情報処理の勉強始めたりの得難い経験はなしえなかった事でしょう。人生全ては手に入りません。高校短大とも音楽科の学校は私立の医学部ほどはかからないにしても、理工学部よりお金かかります。そんな環境で経済的なことでは一度も羨みや妬みの感情抱かずに卒業できた位は、私の実家は裕福だったのでそれは感謝しております。

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