ピンクのホッペの白うさぎさんがイラストに登場しようとツェルニー30番はツェルニー30番。
あんまりツェルニー30番不評なので、ではこれに代わるエチュード系としてこれどうでしょうね。
と、提案したことがあるエチュードが「ピアノの練習ラジリテー」フランス系ののほうが弾きやすくて人によっては相性がいいかも知れない。
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だが、この提案もほぼ却下。感想は「同じじゃない(ツェルニー30番と)。」
わたしは今現在ピアノの練習ラジリテーは使っていないのですが、この黄色い音楽之友社出版の楽譜は持っています。
何故かこの楽譜は標準規格の本より一回り大きく書棚ではみ出してラジリテー様ここにありますぜの、主張をしている。
珍しいビタミンカラー。
安川加寿子先生の訳と、書いてあるが(ラジリテーはフランス系)楽譜におフランス語からの翻訳もなにもあるのかい?世界共通じゃないか?
だがそれは、音符のほうでない。各曲の下に虫眼鏡で見なきゃ読めないようなちっこい字で効果的な学習法その他が書いてあるのだ。
しかもかたい文章で。
30の小さな物語の親切さとはなんという違い。
そして、「はじめに」のあとに続くのはラジリテーが終わったら、次はツェルニー30番、40番、50番と進むと上達が容易となるであろう。
本当か?
わたし、時々バイエルを教材として希望する生徒さんがいるのでバイエル終了後はブルクミュラーはなしにしてこのラジリテーに進むのがいいんじゃないか?と、思ってたのだ。
だが、この文は書いたのは昭和28年3月。ピアノのお稽古暗黒時代の幕開け時期じゃありませんか!
本当の話わたしだってまだ生まれていません。
安川先生、大変功績のあった方でNHKのピアノのお稽古(多分そんなタイトルだった)の先生も勤められていたいたのですが、生年1922年、大正生まれ。
幼少の砌からフランスで育ってフランスでピアノ教育受けたので、フランス語で考える。
という、今なら誰もびっくりしない経歴だが当時の人々は驚愕したのでしょう。
昭和28年、これ以降ピアノブームは起こり専業主婦のお母さんに付き添われてピアノのお稽古に通って日々の練習は幼稚園生や小学生には理解不能の難題を押し付けられるのでお母さんが家で教えて練習して(泣かされながら)レッスンでは先生に泣かされてピアノ嫌いの少女(あるいは少年)を量産した時代の始まりです。
お嬢様をレディーにする。のコピーでピアノメーカーの在庫はカラとなり、ピアノの先生の家の門前には受講希望者が列をなした暗黒時代とはいえ違う意味ではいい時代だったのです。
だが!やはり昭和43年に時代に合わせた改訂がされた。
時代に合わせて改訂いたしました。とのこと。
ラジリテーの難易度はブルクミュラー25の練習曲とツェルニー30番のツェルニー30番のよりくらいの難易度。
だが、そんなにエチュードの山を続けなくても今は昭和20年代後半から30年代じゃないんだからいい。
指導法だって進歩してますが、習いに来るほうの生徒たちのほうだってそれ以上に進歩しています。
エチュードの難易度よりもはるか難易度上と思われる曲をコレが弾けた弾けた。と言うので「ほんとかいな?」
だが、ほんとに弾いてる。
注意点はいろいろあれどなんとか弾いてしまう。それも聴いただけで弾いてしまう。
困るのは原調とかけ離れた調性で弾くので、わたしは改めて楽譜を起こしたりする。(楽譜は必ず見せるようにしてます。)
つまりは相対音感が抜群にいいのだ。
幼い頃は耳を育てるレッスンをしましょう。と、いうのもなんだか虚しくなる。
何故なら、訓練授けなくて勝手に耳は育ってる。
テクニックの方も課題のエチュードはイヤイヤでも気に入った曲になると自前の難易度ものともせずに果敢に難曲を攻めるうちに身についてくる。
そうなると、がつがつエチュードの山を踏破させるのではなくて、適当に飛ばしてしまって構わないじゃない。
わたしはラジリテーはやっていないし、ラジリテーで教えたこともほとんどないのだけれど、ラジリテーに妙な思いがあるのは高校生の頃のわたしがついたのではないピアノの先生で全ての生徒にラジリテーを与えていた先生がいたのだ。
エチュードが試験曲の時は同じ曲を弾かせていたので、その先生の生徒はすぐにわかる。
ついでに、わたしが高校生の頃といっても昭和43年よりあとのことです。
そして、ピアノの練習ラジリテーが終わると、次はツェルニー30番でも40番でもなく、クラムマービューロー60練習曲に進ませていた。
確かハンガリー人の先生だったと記憶しているが、生徒によってはこれも有りと思う。
だって、その頃とて昭和28年とは事情が違ってきているのだ。
わたしも生徒によってももうツェルニー30番の次はクラムマービューローでいいんじゃないかと思っている。
嗚呼、大正は遠くなりにけり。